中二病の救世主~2~

救世主とは、人類や世界を救うもの、主にキリスト教でイエスキリストを指す。

つまり「中二病の救世主」とは、文字通り中二病を救うものということであると思う。

 

中二病を救うって何だろうなぁ、と思う。

きっと中二病って誰しもなんとなく通る道であり、誰に救われるわけでもなく大人になるにつれそんなことも考えなくなってそうやって人は中二病を治してく(?)のだろう。

 

enskの中二病の救世主は、きっといい歳こいてもそういう「子供」の感覚から抜け出せない人を救うためにあるのだと思うけど、それはどういうことなのだろう。(この感覚を持ち合わせている!と言ってる人でも実はもう治せちゃってる人とかいる。)

救うという言葉を単純に捉えるなら、そんな感覚から抜け出すようにするということだと思う。しかし、enskにおいて中二病というのは強いワードとなるわけで、こちら側にもそうであればいいと思うよ!むしろ誇っていけよ!ということを提示している。その場合救われてしまったらenskの世界にいることは出来ないのではないかと考える。

 

ではenskの世界でいう「救う」ということはどういう事なのだろうか。

まぁ、きっとみなさん言ってるんだと思うけどお決まりのように「Bさんはメシアでですとか「世界の中心です」とかイベントの時に言うんですけど、その時の返しが「これからもそう居られるように頑張ります。」なんですよ。テンプレの返しだと思うんだけどコレに詰まってるというか。Bさんがそうであると思うことで完成するというか。ただそこに在るだけで良いものというか。指標というか(言い過ぎか)

enskを見ていると本当に救われるってなんだろうな?と思うわけです。救うとか救われるとか、簡単に使っていい言葉じゃないと思うし、でも確かにあの日とか、あの日とかあの瞬間とかが無ければ私は体のどこかを切っていたかもしれないと思うと今日という日に生きている私の体が無傷なことは「救われた」ということなんじゃないかなぁと思う。

「まぁ、人生そこそこででしょ。と思える自分がいるということがまさにenskには救いがあるという証明なんじゃなかろうか。

 

以前書いた通り私は選民意識とかクソ喰らえだし、たまに人と違う部分が多い自分を見つめては絶望するし、そういうことってきっと一生肯定できないんだけど、(安易に肯定できる人はクソッタレとも思うし)そういう卑屈な人間が「まぁ上々じゃねぇかな…」と思える凄さというか。幸せを手に入れましょう!とかそういうわかりやすい救いなんじゃなく、enskの救いっていうのは適当に生きられる自分まぁまぁ良くやってるじゃーんとかそういう緩いものなのかなと「「「「私は」」」」おもっています

 

~続く(かもしれない)~